はじめに
ウオーキングをしながら歴史を学ぶおじんの一人旅、今回は川崎宿です。北品川から道幅が狭くなり旧東海道の雰囲気が出て来ました。東海道ウオーカーとしての私も旧道を歩けるとなると気分も乗ってきます。
江戸の守り 六郷の渡し
江戸の玄関口の渡し場として重要度の高かった六郷の渡しですが徳川家康は、最初は橋を架けました。が度重なる多摩川の洪水により橋は何度も流され結局架橋は諦め渡船方式にしたようです。当時の橋は、現在のような頑丈な橋では無く、洪水の時は水面下に潜ってしまう所謂「もぐり橋」といわれるものでした。
川崎宿の救世主 田中休愚
川崎宿本陣当主の田中休愚(きゅうぐ)は、当時弱かった川崎宿の財政基盤を、六郷渡しの経営権を幕府と交渉し譲り受けることによって、立て直しました。
水田耕地の改良 小土呂橋周辺
小土呂橋周辺は低湿地だったため、幕府は新川堀を開削・排水し水田耕地の改良を行いました。宿場は、久根崎・新宿・砂子・小土呂の4町で構成されていましたが今では、砂子は地名で、小土呂と久根崎は交差点やバス停で名前が残っています。
今生の別れ 芭蕉句碑
「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」
元禄7年(1694)5月、当時江戸に住んでいた松尾芭蕉が郷里伊賀に帰る時に、川崎宿まで見送りに来た弟子達と別れを惜しんで詠んだ句。この年の10月大坂で亡くなったため関東での最後の句となりました。芭蕉はひょっとして自分の死期を予想して居たかもしれません。悲しい句ですね。
まっすぐな一本道 八丁縄手
川崎宿の京方見付(現在の小川町あたり)から市場村入口までたんぼ道がまっすぐ八丁(約870m)続いていたということで八丁縄手と呼ばれるようになりました。縄手とはまっすぐな長い道のことをいいます。
尊皇攘夷派を見張る 鶴見橋関門
安政6年(1859)横浜開港を機に、外国人に危害を加えようとする尊王攘夷派の通行を取り締まるため、幕府は横浜に通ずる道に関門を設けました。鶴見橋関門もその一つ。
薩英戦争に発展した 生麦事件
文久2年(1862)薩摩藩島津久光の行列に馬で入った英国商人リチャードソン他三名を薩摩藩士が殺傷した事件。この事件は幕府をも巻き込み、最終的には薩英戦争に発展しました。
まとめ
川崎宿を通る東海道は、現川崎市の市街地のど真ん中を通っていますので他の宿よりも、昔のまま残っているところは少なかったように思います。街は発展していきますので仕方のないことだとわかっているのですが。少し残念でした。