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歴史

東海道おじんの一人旅(6)(平塚宿~大磯宿)

  

はじめに

ウオーキングを兼ねて東海道と江戸文化を知ろうとする

欲張り一人旅、今回は平塚宿から大磯宿をご紹介します。

おしゃれ地蔵

 藤沢宿の中心部を抜けて平塚方面へ少し歩くと「おしゃれ地蔵」があります。地蔵といいながら道祖神のようですが、「女性の願い事なら、何でもかなえてくださり、 満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする」 という言い伝えから、今でも白粉が絶えることがないので 「おしゃれ地蔵」と呼ばれるようになったといいます。私が訪れた時も口紅が付けられていました。こういう可愛らしい道祖神は珍しく、私も初めて見ました。

馬入の渡し

 江戸時代、軍事上および技術上の理由で川に橋を架けることは禁じられていました。従って川を渡る手段としては、渡船と徒渉(歩いて川を渡る)がありました。当時相模川の河口付近は、馬入川と呼ばれていましたが、ここでは渡船により川を渡っていました。また徒渉の例としては、大井川・安倍川等があります。馬入の意味は、鎌倉時代、源頼朝が旧相模川に架かる橋の竣工式に出席した際、頼朝の乗った馬が暴れて川へ落ちたことから、その名がついたとのことです。

高来神社

 高来神社の後ろに見えるのが高麗山で、高来神社は高麗神社とも言われます。いわれは、朝鮮半島から渡来した高麗人がこのあたりに住んでいたことから。家康の死後、東照権現を祀ったことにより、参勤交代の諸大名は、高来神社の前を通る際には下馬して参詣しなくてはなりませんでした(大磯町観光情報による)。

鴫立庵(しぎたつあん)

 国道1号線沿いにある鴫立庵は、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び日本三大俳諧道場として有名で300年以上の歴史を誇る。平安末期、西行法師がこの地を訪れ、「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」という歌を残しましたが、江戸時代初期に崇雪(そうせつ)という人物が、西行のこの歌にちなみこの場所に鴫立沢の標石を建て、草庵を結んだのが始まりといわれています。また敷地内にある標石は、湘南発祥の地を示す史跡としても知られています。

島崎藤村旧宅

 現在もリゾート地として有名な大磯ですが、日本で最初に海水浴場が開かれた場所としても有名な場所。明治時代から伊藤博文・山県有朋らが別荘を構えていました。島崎藤村もその一人で別荘を「静の草屋」と呼び、晩年をここに過ごしました。

 島崎藤村の作品に有名な「夜明け前」がありますが、中学生か高校生の時に読み、難しくて途中で挫折した記憶があります。最近また挑戦しましたが、今回は楽しく読み終えることができました。東海道ウオーキングのお蔭で、江戸時代の街道や当時の交通の制度等の知識を少々蓄積できたので。

ここでは、藤村の生活空間が当時のまま保存されていた。
島崎藤村の墓 藤村旧宅近くの地福寺境内にある

大磯の松並木

 江戸幕府は街道に並木を植えることを命じ、日差し・風雨から旅人を守りました。現在の東海道では残っている並木は少なくなっていますが、大磯の松並木は、当時の面影を残す数少ない場所となっています。

旧吉田邸

 松並木を過ぎて小田原方面に1km程歩くと左に旧吉田邸が見えて来ます。吉田茂は、昭和20年(1945年)からここに住み晩年を過ごしましたが、当時の政治家がことある毎にここを訪れ吉田茂に意見を求めたといいます。さすがに実力のある政治家は違いますね。

まとめ

 今回は、平塚から大磯までをご紹介いたしましたが、これから東海道を歩くあなたの参考となりましたでしょうか。この区間は、旧道と現在の国道1号線との重複する部分が多いですが、東京都内の1号線とは異なり道幅も狭く、余り違和感は無く落ち着いた感じがしました。やはり今日でも保養とレジャーで人気のある湘南だからでしょうか。

  

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東海道 歴史

 東海道おじんの一人旅(5)(戸塚宿~藤沢宿)

はじめに

 かってきままに東海道を歩きながら歴史を勉強する旅、今回は戸塚宿から藤沢宿を歩きます。

街道の雰囲気が残る品濃一里塚

 権太坂を過ぎると武蔵国から相模国に入りますが、このあたりは旧街道の雰囲気が色濃く残っていて、「東海道を歩いているなあ」という気分に浸れるエリアです。品濃一里塚は両側の一里塚が残っていますので、当時のまま保存されている貴重な一里塚です。現在沿道は住宅地となっていますが、このようによく保存されている旧道は、東海道ウオーカーにとってはほんとうにうれしいです。

日本初のハムを冷蔵した赤レンガ倉庫

 品濃一里塚のある品濃坂を下りていきしばらく国道1号線を歩きますと左に旧道が出て来ます。そこを入るとすぐ古い赤レンガの倉庫が見えてきます。この倉庫は、日本で最初にハムを製造した齋藤万平氏(現鎌倉ハムの初代社長)が作ったハム冷蔵用の倉庫です。関東大震災にも耐えたそうです。

広重が描いた吉田大橋

 広重の「東海道五十三次」の戸塚に描かれ有名になっています。この橋の手前の道がかまくら道、渡って右が八王子道となっており当時は交通の要衝だったので、広重はこの場所を戸塚宿の代表として描いたのかも知れません。

家康の側室お万の方が創建した清源院

 お万の方(清源院尼)は家康の危篤の知らせを聞き駿府に駆けつけた際、家康から阿弥陀如来像を拝領していましたが、家康死後に出家し阿弥陀如来像を本尊として清源院を建てました。紛らわしいですが、同じく側室のお万の方(陽珠院)とは別人です。家康の側室は20名位いたようです。名前が同じ女性もいました。結構お盛んだったようですね。

お軽・勘平戸塚山中道行碑

 赤穂事件を題材とした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」にちなんで建てられた碑。大坂を登り切った場所に建てられています。

時宗総本山 遊行寺

 このお寺は、時宗開祖の一遍上人から数えて四代目の呑海上人が開山した時宗の総本山です。歴代の上人が遊行のあと住んだので遊行寺という名前が付けられたと言われています。ちなみに遊行(ゆぎょう)とは、僧が諸国を巡り歩いて修行または教化することを言います。

まとめ

 戸塚宿から藤沢宿は、いかがでしたでしょうか。今回の道は1号線とダブルところが比較的多く、そこを歩いているときは気分が落ち込みましたが品濃坂あたりは、まさに街道を歩いている感じがしてGOODでした。次回もご期待あれ。

 

 

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東海道 歴史

東海道おじんの一人旅(4)神奈川宿・保土ケ谷宿

はじめに

 ウオーキングと歴史の勉強を目的とした東海道おじんの一人旅、今回は神奈川宿・保土ケ谷宿をご紹介します。

源頼朝が建てた洲崎大神

 生麦事件の碑を過ぎて、今は住宅街となった旧街道を歩いた後、道は国道15号に合流します。毎回の事ですが、国道に出ると一気に現実に戻され筆者の気分もダウン。我慢して横浜市街を歩いて行くと程なく州崎大神にたどり着きます。洲崎大神は、源頼朝が安房国一宮の安房神社の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられています。

絹の道との分岐 芝生の追分

 街道との分かれ道を追分と言いますが、ここは、東海道と八王子道との分岐点となります。八王子道は、八王子周辺で生産された絹を横浜から輸出するための道として使用されたため「絹の道」と呼ばれました。

道路に旧東海道の表示がありました。ウオーカーにとってはありがたいサービスです

 

旧街道も賑やかな商店街に変身

 芝生の追分を過ぎると松原商店街があります。旧街道を通っていると、あるところは住宅街、あるところは商店街と様々に変貌を遂げていますが、ここは特別賑やかな商店街となっていました。私が通りかかった時も特売か何かで、道幅一杯に人が群がっていました。そうでした。ここは「ハマのアメ横」でした。

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#天王町 #tennocho #yokohama #松原商店街

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現在の保土ケ谷はすっきりしていた

 旧街道を歩いていると、どうしても現在の街の状況も見えてしまいますが、現在の保土ケ谷の街は、清潔感のある歩いていてスッキリした、きれいな街との印象を受けました。

一里塚跡・上方見付跡

 保土ケ谷の一里塚は、日本橋から8番目に位置し旅人の憩いの場ともなっていました。現在は「保土ヶ谷宿松並木プロムナード水辺愛護会」が設立され、松の木植樹およびプロムナードが整備され市民の憩いの場となっていました。 

一里塚横の歩道は整備されていました

巨木のあったお寺 樹源寺

 このお寺は、かって境内に大きな欅があったことから「樹を源とするお寺」と名付けられました。江戸寛永年間保土ケ谷本陣の奥方(妙秀尼)が日蓮宗の日了上人を招いて開山したと言われています。

日本橋から歩いて初の厳しい坂 権太坂

 日本橋からここまで東海道は、平坦なみちのりでしたが、この権太坂で旅人は厳しい坂に出会います。それが権太坂です。権太坂の名前の由来は、坂の名前を聞かれた老人が自分の名前を聞かれたと勘違いして「権太でがす」と答えたことから来ていると言われています。現在の権太坂は正月の大学駅伝で有名になっていますが旧東海道とは異なる路です。 

まとめ

 今回のウオーキングは、いかがでしたか。国道になっている部分と旧道が入り組んでいますので、筆者は権太坂旧道の入り口を見逃し現在の国道を間違って上って行きました。しばらくして間違いに気づき、また戻って入り口を見つけることが出来ました。適切な看板があったらよかったなと思っています。横浜市の担当の方、よろしくお願いします。

 

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東海道 歴史

東海道おじんの一人旅(3)川崎宿

はじめに

 ウオーキングをしながら歴史を学ぶおじんの一人旅、今回は川崎宿です。北品川から道幅が狭くなり旧東海道の雰囲気が出て来ました。東海道ウオーカーとしての私も旧道を歩けるとなると気分も乗ってきます。

道幅が約6mの旧東海道

江戸の守り 六郷の渡し

 江戸の玄関口の渡し場として重要度の高かった六郷の渡しですが徳川家康は、最初は橋を架けました。が度重なる多摩川の洪水により橋は何度も流され結局架橋は諦め渡船方式にしたようです。当時の橋は、現在のような頑丈な橋では無く、洪水の時は水面下に潜ってしまう所謂「もぐり橋」といわれるものでした。

現在の新六郷橋から見た夕焼け

川崎宿の救世主 田中休愚

 川崎宿本陣当主の田中休愚(きゅうぐ)は、当時弱かった川崎宿の財政基盤を、六郷渡しの経営権を幕府と交渉し譲り受けることによって、立て直しました。

水田耕地の改良 小土呂橋周辺

 小土呂橋周辺は低湿地だったため、幕府は新川堀を開削・排水し水田耕地の改良を行いました。宿場は、久根崎・新宿・砂子・小土呂の4町で構成されていましたが今では、砂子は地名で、小土呂と久根崎は交差点やバス停で名前が残っています。

小土呂橋交差点にある小土呂橋親柱

今生の別れ 芭蕉句碑

 「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」

 元禄7年(1694)5月、当時江戸に住んでいた松尾芭蕉が郷里伊賀に帰る時に、川崎宿まで見送りに来た弟子達と別れを惜しんで詠んだ句。この年の10月大坂で亡くなったため関東での最後の句となりました。芭蕉はひょっとして自分の死期を予想して居たかもしれません。悲しい句ですね。

まっすぐな一本道 八丁縄手

 川崎宿の京方見付(現在の小川町あたり)から市場村入口までたんぼ道がまっすぐ八丁(約870m)続いていたということで八丁縄手と呼ばれるようになりました。縄手とはまっすぐな長い道のことをいいます。 

尊皇攘夷派を見張る 鶴見橋関門

 安政6年(1859)横浜開港を機に、外国人に危害を加えようとする尊王攘夷派の通行を取り締まるため、幕府は横浜に通ずる道に関門を設けました。鶴見橋関門もその一つ。

薩英戦争に発展した 生麦事件

 文久2年(1862)薩摩藩島津久光の行列に馬で入った英国商人リチャードソン他三名を薩摩藩士が殺傷した事件。この事件は幕府をも巻き込み、最終的には薩英戦争に発展しました。

まとめ

 川崎宿を通る東海道は、現川崎市の市街地のど真ん中を通っていますので他の宿よりも、昔のまま残っているところは少なかったように思います。街は発展していきますので仕方のないことだとわかっているのですが。少し残念でした。

 

 

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東海道 歴史

東海道おじんの一人旅(2)品川宿

はじめに

ウオーキングを行いながら江戸文化について学びたいということで東海道を歩いているtomyです。自分が東海道を歩いて気づいたこと、印象に残ったことをブログに書いています。前回は日本橋周辺でした。今回は日本橋から品川あたりについて書いてみたいと思います。

大喧嘩のあった芝大神宮

 日本橋から京橋、銀座のど真ん中を抜けて東海道を歩く。高層ビルの多い大通りには、昔の街道の雰囲気は残っていません。浜松町まで来ると大都会のビル街は無くなり、よくある都会の風景になりました。右手に芝大神宮が見えてきました。芝大神宮では、文化2年(1805)火消し め組の辰五郎と力士九竜山とが仲間を巻き込んで大喧嘩をしたことが有名です。この日は9月の例大祭にあたる日でした。 

赤穂浪士が眠る泉岳寺

 芝大神宮を後にして東海道を西に進みます。札の辻、高輪の大木戸跡を過ぎると泉岳寺が見えました。泉岳寺はご存じのとおり赤穂浪士のお墓があるお寺として有名です。参拝者の多くが義士のお墓に線香を立てていました。 

 <泉岳寺の基本情報>

  ・住  所:東京都港区高輪2-11-1

  ・アクセス:都営浅草線、泉岳寺駅下車 徒歩1分

  ・開閉門時間:夏(4/1~9/30) 7:00~18:00

         冬(10/1~3/31) 7:00~17:00

  ・赤穂義士記念館拝観時間:

         夏(4/1~9/30)9:00~16:30

         冬(4/1~9/30)9:00~16:00

品川宿交流館で休憩を

 JR品川駅を過ぎ、京急本線の踏切を渡ると北品川の商店街に入ります。ここに来ると、「ああ、東海道になった」とホットします。道幅もぐっと狭くなり旧街道の雰囲気が一気に出てきます。しばらく歩きますと、左側に「品川宿交流館本宿おやすみ処」があります。ここでちょっと休憩です。東海道を歩いていると各所に文化施設・資料館があって東海道ウオーカーに休憩場所とその宿の紹介資料・地元のお土産等が準備されています。品川宿交流館は、「東海道検定」の受験会場にもなっています。

品川の龍神さま 荏原神社

 奈良時代の創建といわれる古社。古くから源氏・徳川・上杉等多くの武将から信仰され、明治に入ってから明治天皇にも行幸を受けています。品川の龍神さまとして地元にも慕われている神社。 

まとめ

 今回は日本橋から品川宿の歴史ポイントをご紹介させていただきました。ご参考になれば幸せです。

 

 

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東海道 歴史

東海道おじんの一人旅(1)日本橋

はじめに

 ウオーキングと歴史の勉強を始めるべく東海道を歩くことにしました。東海道を歩いていて感じた事を書いていきたいと思います。これから東海道を歩く方の参考になれば幸いです。第1回目は日本橋です。

日本橋の第一印象

 日本橋の第一印象は、「ワアー都会だ。人も多いし、周りの建物も大きなビルデイングばかり。こんな所に江戸の片鱗が残っているのか?」という疑問でした。しかし周りをよく見ると、江戸の歴史が見えてきました。

 

物流の拠点としての日本橋

 江戸時代、日本橋は五街道の起点として発展し、日本の交通・物流の中心でした。また日本橋川脇から水運で運ばれて来た全国の水産物資もここ日本橋に集められ大きな魚河岸も出来ました。

日本橋の銘板は徳川慶喜の筆

 橋に「日本橋」と書いてありますが、これは最後の将軍の徳川慶喜が書いたものだそうです。知ってました?

継ぎ飛脚から郵便制度へ

 江戸時代、継ぎ飛脚は公用の手紙については、江戸から京都三条大橋までの約500kmを3日で届けました。明治になって制度化された郵便制度は、このような実績のもとに成り立っています。

あなご専門店 日本橋の玉ゐ本店

観光で疲れたら「あなご専門店 日本橋の玉ゐ本店」であなごの箱めしをいただきましょう。日本橋の高層ビルの間に歴史を感じるこんなお店がありました。江戸を感じますね。箱めし小箱で1800円は決して安くはないですが、あなごの蒲焼き初めていただきました。うなぎよりしつっこくなくさっぱりした味付けとなっています。平日のお昼前でしたが、行列ができていました。

あなご専門店日本橋の玉ゐ本店基本情報

・住  所:東京都中央区日本橋2-9-9

・アクセス:地下鉄日本橋駅 徒歩3分

・営業時間:11:00~14:30 17:00~21:30(月~金)

    11:30~15:30 16:30~21:00(土日祝)

    日本橋 玉ゐHP

人形町名物/重盛永信堂の人形焼

歩き疲れた時は、甘いものを食べるのが一番です。ここ人形町では人形焼きが有名で東京名物にもなっています。からくり時計台横の重盛さんの人形焼きを買ってみました。小さいときに食べたことはあったのですが、忘れてしまったので買って味を再確認。七福神の顔をした人形焼きは、薄皮の中にこしあんがたっぷり入っていました。もうひとつの鮎の形の人形焼きは、薄皮の中に白あんが入っていました。両方とも皮は本当に薄く即あんこという感じです。あんこも甘すぎること無く上品な甘さになっています。甘党の方にはおすすめです。またおみやげにもどうぞ。店の左奥で製造の実演を行うのですが、私が行った時は、時間的に終了したところで見られず残念でした。 

重盛永信堂の人形焼き基本情報

・住  所:東京都中央区日本橋人形町2-2-1

・アクセス:地下鉄半蔵門線水天宮駅 7番出口すぐ

・営業時間:9:00~20:00(月~金)

      9:00~18:00(土、日、祝)

・定休日:不定期

お客様が途切れ目なく来て人形焼きを買って行った

まとめ

 日本橋に到着したときは、高層ビルばかりで現代の都会しか感じられませんでしたが、散策していると江戸文化と情緒が感じられるところが多くありました。日本橋に来られたときは、少し時間を取っていただいて近くを歩いて見ることをおすすめします。