本日は、ケニーバレルの名盤「midnight blue」からChitlins Con Carneを聞いてみよう。
最高ですね。理屈抜きにいい。体が自然と動き出す。
最高ですね。理屈抜きにいい。体が自然と動き出す。
ウオーキングを兼ねて東海道と江戸文化を知ろうとする
欲張り一人旅、今回は平塚宿から大磯宿をご紹介します。
藤沢宿の中心部を抜けて平塚方面へ少し歩くと「おしゃれ地蔵」があります。地蔵といいながら道祖神のようですが、「女性の願い事なら、何でもかなえてくださり、 満願のあかつきには、白粉を塗ってお礼をする」 という言い伝えから、今でも白粉が絶えることがないので 「おしゃれ地蔵」と呼ばれるようになったといいます。私が訪れた時も口紅が付けられていました。こういう可愛らしい道祖神は珍しく、私も初めて見ました。
江戸時代、軍事上および技術上の理由で川に橋を架けることは禁じられていました。従って川を渡る手段としては、渡船と徒渉(歩いて川を渡る)がありました。当時相模川の河口付近は、馬入川と呼ばれていましたが、ここでは渡船により川を渡っていました。また徒渉の例としては、大井川・安倍川等があります。馬入の意味は、鎌倉時代、源頼朝が旧相模川に架かる橋の竣工式に出席した際、頼朝の乗った馬が暴れて川へ落ちたことから、その名がついたとのことです。
高来神社の後ろに見えるのが高麗山で、高来神社は高麗神社とも言われます。いわれは、朝鮮半島から渡来した高麗人がこのあたりに住んでいたことから。家康の死後、東照権現を祀ったことにより、参勤交代の諸大名は、高来神社の前を通る際には下馬して参詣しなくてはなりませんでした(大磯町観光情報による)。
国道1号線沿いにある鴫立庵は、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び日本三大俳諧道場として有名で300年以上の歴史を誇る。平安末期、西行法師がこの地を訪れ、「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮」という歌を残しましたが、江戸時代初期に崇雪(そうせつ)という人物が、西行のこの歌にちなみこの場所に鴫立沢の標石を建て、草庵を結んだのが始まりといわれています。また敷地内にある標石は、湘南発祥の地を示す史跡としても知られています。
現在もリゾート地として有名な大磯ですが、日本で最初に海水浴場が開かれた場所としても有名な場所。明治時代から伊藤博文・山県有朋らが別荘を構えていました。島崎藤村もその一人で別荘を「静の草屋」と呼び、晩年をここに過ごしました。
島崎藤村の作品に有名な「夜明け前」がありますが、中学生か高校生の時に読み、難しくて途中で挫折した記憶があります。最近また挑戦しましたが、今回は楽しく読み終えることができました。東海道ウオーキングのお蔭で、江戸時代の街道や当時の交通の制度等の知識を少々蓄積できたので。
江戸幕府は街道に並木を植えることを命じ、日差し・風雨から旅人を守りました。現在の東海道では残っている並木は少なくなっていますが、大磯の松並木は、当時の面影を残す数少ない場所となっています。
松並木を過ぎて小田原方面に1km程歩くと左に旧吉田邸が見えて来ます。吉田茂は、昭和20年(1945年)からここに住み晩年を過ごしましたが、当時の政治家がことある毎にここを訪れ吉田茂に意見を求めたといいます。さすがに実力のある政治家は違いますね。
今回は、平塚から大磯までをご紹介いたしましたが、これから東海道を歩くあなたの参考となりましたでしょうか。この区間は、旧道と現在の国道1号線との重複する部分が多いですが、東京都内の1号線とは異なり道幅も狭く、余り違和感は無く落ち着いた感じがしました。やはり今日でも保養とレジャーで人気のある湘南だからでしょうか。
筆者の独断と偏見で、いいなと思うJazzをご紹介しています。今回はトランペット編です。さて皆さんの好みと合いますでしょうか。
トランペトといえば、マイルスはなんと言っても一番でしょう。ジャズの歴史の中で色んな時代に顔を出し、歴史を作ってきた人ですから。
この曲は、マイルスの押さえたミュートプレイとレッド・ガーランドのコロコロとした軽快なピアノが冴えてます。
音を短く切って演奏するアート・ファーマー、流れるようなトミー・フラナガンのピアノ、リズミカルなトミー・ウイリアムズのベース、全般的に気負わずオーソドックスに演奏しているのがいいですね。
トランペットの微妙な音の変化で、せつなくせまってくる吹き方がいい。What’s new.「お変わりない?」。あなたもどこかの飲み屋のママさんからこんなこと言われたことがあるでしょ。So Good.
ガレスピーのトランペットと二人のソニー(ソニー・ステイットとソニー・ロリンズ)の掛け合いが面白い。最後にボーカルが入るが、サッチモかと思ったらガレスピーが歌ってました。
ちょっと女性かと思わせるベイカーの中性的なボーカルがいい。バックのケニュー・ドリューのピアノも流暢だし、フィリー・ジョー・ジョーンズのドラムスも小気味良いですね。
今回のトランペット特集はいかがでしたか。好みのプレイヤー、好みの曲は入っていましたか。楽しめていただけましたなら筆者は幸せです。
かってきままに東海道を歩きながら歴史を勉強する旅、今回は戸塚宿から藤沢宿を歩きます。
権太坂を過ぎると武蔵国から相模国に入りますが、このあたりは旧街道の雰囲気が色濃く残っていて、「東海道を歩いているなあ」という気分に浸れるエリアです。品濃一里塚は両側の一里塚が残っていますので、当時のまま保存されている貴重な一里塚です。現在沿道は住宅地となっていますが、このようによく保存されている旧道は、東海道ウオーカーにとってはほんとうにうれしいです。
品濃一里塚のある品濃坂を下りていきしばらく国道1号線を歩きますと左に旧道が出て来ます。そこを入るとすぐ古い赤レンガの倉庫が見えてきます。この倉庫は、日本で最初にハムを製造した齋藤万平氏(現鎌倉ハムの初代社長)が作ったハム冷蔵用の倉庫です。関東大震災にも耐えたそうです。
広重の「東海道五十三次」の戸塚に描かれ有名になっています。この橋の手前の道がかまくら道、渡って右が八王子道となっており当時は交通の要衝だったので、広重はこの場所を戸塚宿の代表として描いたのかも知れません。
お万の方(清源院尼)は家康の危篤の知らせを聞き駿府に駆けつけた際、家康から阿弥陀如来像を拝領していましたが、家康死後に出家し阿弥陀如来像を本尊として清源院を建てました。紛らわしいですが、同じく側室のお万の方(陽珠院)とは別人です。家康の側室は20名位いたようです。名前が同じ女性もいました。結構お盛んだったようですね。
赤穂事件を題材とした歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」にちなんで建てられた碑。大坂を登り切った場所に建てられています。
このお寺は、時宗開祖の一遍上人から数えて四代目の呑海上人が開山した時宗の総本山です。歴代の上人が遊行のあと住んだので遊行寺という名前が付けられたと言われています。ちなみに遊行(ゆぎょう)とは、僧が諸国を巡り歩いて修行または教化することを言います。
戸塚宿から藤沢宿は、いかがでしたでしょうか。今回の道は1号線とダブルところが比較的多く、そこを歩いているときは気分が落ち込みましたが品濃坂あたりは、まさに街道を歩いている感じがしてGOODでした。次回もご期待あれ。
ウオーキングと歴史の勉強を目的とした東海道おじんの一人旅、今回は神奈川宿・保土ケ谷宿をご紹介します。
生麦事件の碑を過ぎて、今は住宅街となった旧街道を歩いた後、道は国道15号に合流します。毎回の事ですが、国道に出ると一気に現実に戻され筆者の気分もダウン。我慢して横浜市街を歩いて行くと程なく州崎大神にたどり着きます。洲崎大神は、源頼朝が安房国一宮の安房神社の霊を移して建久2年(1191)に創建したと伝えられています。
街道との分かれ道を追分と言いますが、ここは、東海道と八王子道との分岐点となります。八王子道は、八王子周辺で生産された絹を横浜から輸出するための道として使用されたため「絹の道」と呼ばれました。
芝生の追分を過ぎると松原商店街があります。旧街道を通っていると、あるところは住宅街、あるところは商店街と様々に変貌を遂げていますが、ここは特別賑やかな商店街となっていました。私が通りかかった時も特売か何かで、道幅一杯に人が群がっていました。そうでした。ここは「ハマのアメ横」でした。
旧街道を歩いていると、どうしても現在の街の状況も見えてしまいますが、現在の保土ケ谷の街は、清潔感のある歩いていてスッキリした、きれいな街との印象を受けました。
保土ケ谷の一里塚は、日本橋から8番目に位置し旅人の憩いの場ともなっていました。現在は「保土ヶ谷宿松並木プロムナード水辺愛護会」が設立され、松の木植樹およびプロムナードが整備され市民の憩いの場となっていました。
このお寺は、かって境内に大きな欅があったことから「樹を源とするお寺」と名付けられました。江戸寛永年間保土ケ谷本陣の奥方(妙秀尼)が日蓮宗の日了上人を招いて開山したと言われています。
日本橋からここまで東海道は、平坦なみちのりでしたが、この権太坂で旅人は厳しい坂に出会います。それが権太坂です。権太坂の名前の由来は、坂の名前を聞かれた老人が自分の名前を聞かれたと勘違いして「権太でがす」と答えたことから来ていると言われています。現在の権太坂は正月の大学駅伝で有名になっていますが旧東海道とは異なる路です。
今回のウオーキングは、いかがでしたか。国道になっている部分と旧道が入り組んでいますので、筆者は権太坂旧道の入り口を見逃し現在の国道を間違って上って行きました。しばらくして間違いに気づき、また戻って入り口を見つけることが出来ました。適切な看板があったらよかったなと思っています。横浜市の担当の方、よろしくお願いします。
今までジャズは聴いてきたけれど、聴くばかりでジャズの歴史はよく知らないという人は多いと思います。実は筆者もその一人です。ということで今回はジャズの歴史に挑戦してみようと思います。やり方としては、解説のあとすぐに曲が聴けるような形で進めて見ようと思います。皆さんのジャズの歴史への理解が少しでも進めばうれしいですね。
ニューオリンズ・ジャズについては、聴いたことがある人は多いと思います。19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけて、ニューオリンズなどアメリカ南部の都市を舞台にアフリカとヨーロッパの音楽が融合してジャズが誕生しました。
ジャズ誕生に強い影響を与えた黒人音楽にブルースがあります。アメリカの黒人の悲しみと叫びをブルースに託して歌ったベッシー・スミスのブルースを聴いてみましょう。彼女はビリーホリデイにも影響を与えたシンガーです。
ジャズが生まれる前に黒人音楽に強い影響を受け、ジャズのルーツとなった軽快なタッチで演奏するラグタイムというピアノスタイルがありました。知っている人は少ないかもしれませんが、ラグタイムを聴いて見ましょう。
上のラグタイムの音楽はどこかで聴いた覚えがあるでしょう?そうです、ディズニーランドのBGMでよくかかっています。さて次は、ニューオリンズ・ジャズの功労者ルイ・アームストロングの歌を聴いてみましょう。トランペット奏者でありながら一流の歌手でもあります。
1917年アメリカ合衆国の第一次世界大戦参戦に伴い、軍港としての機能が強化されたニューオリンズは、その歓楽街「ストリーヴィル」を閉鎖されるに至りました。「ストリーヴィル」を生活の基盤としていたジャズメン達は仕事にあぶれ、ミシシッピー川を北上しシカゴを、さらにニューヨークを拠点としました。
ジョー・キング・オリバーは、ルイ・アームストロングの先生としても有名なコルネット奏者で、先にシカゴでバンドを結成しその時ルイ・アームストロングをニューオリンズから呼びました。
ルイ・アームストロングと並んで1920年代最も影響力のあったミュージシャン。コルネットを独学で学びジャズのバラードスタイルの基礎を作りました。最後はアルコール中毒で27才の若さで亡くなりました。
スイング・ジャズは、1930年代から1940年代初めにかけて大流行した、白人が主体のビッグバンド形式のジャズ。1929年の世界大恐慌のあと、一般の人たちの間に心が安らぐ軽快な音楽を望む傾向が強まり、その結果陽気でダンスにマッチするスイングジャズが誕生しました。
ベニー・グッドマンは、「スイングの王様」と呼ばれ、1930年代のスーパースターとなりました。また当時差別の意識が根強かった時代にもかかわらず、黒人のアーチストを自らのバンドに積極的に雇った初のアーチストとしても評価されています。
ニューオリンズ・ジャズは、カンザスシティにも伝播し、そこではリズミックでスインギーなサウンドが開花しました。カウント・ベイシーもカンザスシティで頭角を現し、1930年後半にかけてカウント・ベイシー楽団は人気を博しました。
1920年アメリカでは禁酒法が施行されましたが、この法律は酒の密造とそれに関わるギャングの台頭を許してしまいました。反面この法律はジャズを発展させることに貢献しました。1922年ハーレムに「コットンクラブ」という高級クラブが出来ましたが、そこで演奏をするのは黒人のミュージシャン、お客は白人、経営者は酒を密造するギャングという取り合わせでした。そのコットンクラブの専属バンドになったのが、あのデユーク・エリントンの楽団でした。
1940年の初めスイングジャズは頂点を迎え、また大恐慌の影響もあって社会はビッグバンドを雇うには経済的に厳しくなっていきました。一方ミュジシャンの中には、ダンス中心のスイングジャズには物足りさを感じている者もいました。このような状況の中で一部のミュジシャンは、仕事が終わった後ジャズクラブでジャムセッションを通じて、自分たちの技を競い合い、リズムの変革とメロデイラインの複雑化を求めて行きました。こういった動きがモダンジャズの起源といわれるビバップの誕生につながっていきました。
ビバップ誕生の立役者に数えられるのは、チャーリパーカー、デイジ-・ガレスピー、バド・パウエル等でしたが、チャーリパーカーの影響力は絶大でした。以下の曲はチャーリパーカーとデイジ-・ガレスピーが共演しています。聴いてみましょう。
ビバップのピアニストの代表とも言うべき存在。ピアノ、ベース、ドラムスという「ピアノ・トリオ」のスタイルを始めたのもバド・パウエルからと言われています。
1940年代末からビバップのアンチテーゼとして台頭してきた理知的でコントロールされたジャズのジャンル。マイルスデイヴィスが創始者と言われています。
ジャズの帝王。今後もジャズの歴史上で様々な局面で登場します。彼の考え方は、音楽性の追求が第一で能力があれば人種は関係なくパートナーにしました。人種差別がまだまだ残っていた時代では画期的な考え方でした。次の曲のタイトルは、クール・ジャズの代表曲、「クールの誕生」。
盲目のピアニスト。マイルスの「クールの誕生」と同時期にニューヨークで音楽学校を開設し、リー・コニッツ等の門下生を育てクール派と呼ばれていた。知的で透明感のあるサウンドを追求していたと言われています。
1940年後半のクール・ジャズを代表するテナーサックス奏者。他の多くのミュージシャン同様麻薬に手を染め逮捕されますが、復帰後ジャンルを問わずパフォーマンスを発揮し、後にボサノバ奏者としての名声も得ます。
クール・ジャズは、ビバップほどのまとまった動きにはなりませんでしたが、そのスタイルは個々のミュージシャンの心の中に保たれていきました。また次に登場するウエスト・コーストジャズには多大な影響を与えました。ウエスト・コースト・ジャズは、1950年代にロサンゼルスを中心とする西海岸一帯で起こったジャズのジャンルで、アドリブだけでなくアンサンブルのまとまりも重視しました。
シェリー・マンは、1950年代~60年代ロサンゼルスを中心に活躍したジャズドラマー。主役を立てた押しつけがましくない演奏に定評があります。また以下の曲はマイ・フェア・レディの中の「I could have danced all night」ですが、ジャズメンが題材として舞台作品を取り上げるというブームの火付け役となりました。
バリトンサックス奏者兼アレンジャー。ピアノ無しで演奏を行う等ウエスト・コーストジャズをリードしました。
ウエスト・コーストジャズを代表するトランペッター。また柔らかくて物憂げなヴォーカルも人気がありました。ジョアン・ジルベルトが彼の歌い方に刺激された結果、ボサノヴァが生まれたという話もあります。
1950年代半ばから1960年代にかけてニューヨークなど東海岸で流行ったジャズ。ビバップが下火になったのは、アドリブが難解になりすぎて大衆が離れていったと言われていますが、そのビバップにリズム&ブルースとかソウル等の良さを取り入れたものがハード・バップだと言われています。
ジャズドラム奏者。ジャズ・メッセンジャーズのリーダとして活躍し、親日家としても有名。彼のドラムの特徴は、野性味あふれるメリハリの効いた奏法で、アフロ・キューバンリズムをドラムセットで表現したパイオニアとも言われています。
ハードバップ初期のトランペッター。26才という若さで交通事故でなくなりましたが、優れた演奏でジャズの歴史にその名を刻んでいます。1957年にサックス奏者のベニー・ゴルソンはクリフォード・ブラウンを追悼して「アイ・リメンバー・クリフォード」というバラードを作曲し、現在ではジャズのスタンダードになっています。
艶やかな伸びのある演奏スタイルからクリフォード・ブラウンの再来と言われたトランペッター。以下の曲「アイ・リメンバー・クリフォード」の演奏で高い評価を得たあと、アートブレイキーのジャズメッセンジャーに所属し、活躍しました。
トミーフラナガンのピアノは、ブルージーで正統派。主役を引き立てる名脇役と言われています。数え切れないほどたくさんの名盤に顔を出しています。
ざっくり言いますと、コードからアプローチしたビ・バップやハード・バップと異なり、モード(音階)からアプローチしたものがモードジャズと言えます。1950年代後半にハード・バップもマンネリに陥り、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーン、ビル・エバンス等によって研究され「カインド・オブ・ブルー」で完成されたと言われています。
テナーサックス奏者。1961年ジャズ・メッセンジャーの一員として来日、その際日本のミュージシャンにモードジャズを指導しています。1970年にはウエザーリポートを結成し、現在も活躍しています。
フリージャズは1959年末~1960年代末、今までのジャズのジャンルを否定し、ミュージシャンの直感で演奏するジャズのスタイル。オーネット・コールマン、アルバート・アイラー、ジョン・コルトレーン等によって発展しました。
ジャズ来たるべきもの(オーネット・コールマン)
至上の愛(ジョン・コルトレーン)
フュージョンは、1960年代末、ジャズにロック、ポップス、クラシック、現代音楽の奏法を取り入れたジャンルのことをいいます。フュージョンの元々の意味は、「融合」「統合」という意味。
「ビッチェズ・ブリュー」(マイルスデイヴィス)フュージョンの代表的作品
1960年代以降からエレクトロ・ファンク、フュージョン等多彩なスタイルを追求しているジャズピアニストで作曲家・編曲家。映画「ラウンド・ミッドナイト」では、出演と音楽担当の両方をこなしました。
1970年代~活躍しているフュージョンバンド。ウエイン・ヘンダーソン(トロンボーン)、ウイルトン・フェルダー(サックス)を中心にバンド名、メンバーを変えながら、現在も活躍しています。
ジャズピアニスト・キーボーデイスト・作曲家。1971年リターン・トウ・フォー・エバーを立ち上げ、その後も先進的な音楽性と優れた演奏で数々の名曲を生み出しています。
1970年代はフュージョンが流行しましたが、後半再びアコーステイックジャズにも大きな関心が寄せられるようになりました。ウイントン・マルサリスはその代表格。
ジャズだけでなくクラッシクにも造詣の深いトランペッター。父親・兄弟ともジャズの演奏家であり、音楽一家に育ちました。80年代のジャズの伝統回帰へ多大な貢献をしました。
ウイントン・マルサリスの兄でジャズサックス奏者。1981年にアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに参加してプロの活動を始めました。ジャズとロック・リズム&ブルース・ヒップホップとの融合を目的に新ユニット「バックショット・ルフォング」の活動を始めたと言われています。
ジャズトランペッター、作曲家。初期のクリフォード・ブラウンの演奏に似ていると言われています。ミュジシャンの活動に加えて映画音楽の作曲を数多く手がけています。
ジャズの歴史をざっと眺めてきましたが、いかがでしたでしょうか。これからジャズを聴くときは、「これはバップ系のジャズだ」とか「これはモードジャズだ」とか感じることがあると思います。ジャンルの分け方も一応上記のように分けてありますが、同じミュージシャンが、ダブって異なるジャンルのジャズを演奏していることも多いので一概に言えないところもあり、なかなかやっかいです。自分の好きなジャズが大体どのあたりのジャンルに属しているか感じていただければ幸いです。
・ジャズの歴史(相倉久人)
・ジャズ歴史百科事典(スイングジャーナル)
・ジャズのすべて(澤田俊祐)
その他インターネットの個人サイト等を参考にさせていただきました。
ウオーキングをしながら歴史を学ぶおじんの一人旅、今回は川崎宿です。北品川から道幅が狭くなり旧東海道の雰囲気が出て来ました。東海道ウオーカーとしての私も旧道を歩けるとなると気分も乗ってきます。
江戸の玄関口の渡し場として重要度の高かった六郷の渡しですが徳川家康は、最初は橋を架けました。が度重なる多摩川の洪水により橋は何度も流され結局架橋は諦め渡船方式にしたようです。当時の橋は、現在のような頑丈な橋では無く、洪水の時は水面下に潜ってしまう所謂「もぐり橋」といわれるものでした。
川崎宿本陣当主の田中休愚(きゅうぐ)は、当時弱かった川崎宿の財政基盤を、六郷渡しの経営権を幕府と交渉し譲り受けることによって、立て直しました。
小土呂橋周辺は低湿地だったため、幕府は新川堀を開削・排水し水田耕地の改良を行いました。宿場は、久根崎・新宿・砂子・小土呂の4町で構成されていましたが今では、砂子は地名で、小土呂と久根崎は交差点やバス停で名前が残っています。
元禄7年(1694)5月、当時江戸に住んでいた松尾芭蕉が郷里伊賀に帰る時に、川崎宿まで見送りに来た弟子達と別れを惜しんで詠んだ句。この年の10月大坂で亡くなったため関東での最後の句となりました。芭蕉はひょっとして自分の死期を予想して居たかもしれません。悲しい句ですね。
川崎宿の京方見付(現在の小川町あたり)から市場村入口までたんぼ道がまっすぐ八丁(約870m)続いていたということで八丁縄手と呼ばれるようになりました。縄手とはまっすぐな長い道のことをいいます。
安政6年(1859)横浜開港を機に、外国人に危害を加えようとする尊王攘夷派の通行を取り締まるため、幕府は横浜に通ずる道に関門を設けました。鶴見橋関門もその一つ。
文久2年(1862)薩摩藩島津久光の行列に馬で入った英国商人リチャードソン他三名を薩摩藩士が殺傷した事件。この事件は幕府をも巻き込み、最終的には薩英戦争に発展しました。
川崎宿を通る東海道は、現川崎市の市街地のど真ん中を通っていますので他の宿よりも、昔のまま残っているところは少なかったように思います。街は発展していきますので仕方のないことだとわかっているのですが。少し残念でした。
私がジャズを聞いてきてこれはいいと気に入ったものを紹介したいと思います。第一回目はサックス編です。これを聞いてジャズフアンが一人でも増えたらうれしいです。
イントロがいい。船に乗ってジャングルの奥地にどんどん入って行くようなイメージがする。学生時代神戸のジャズ喫茶で聞いて帰りにレード店に寄って即買った。当時聞いていたジャズとは違う臭いがした。ラテン系音楽の臭い。新鮮だった。
バラードの典型みたいな曲。コルトレーンがやさしい、ハートマンもやさしい。うっとり気分最高。
私のジャズの聞き始めは、実はソニーロリンズからでした。学生時代、百貨店の電気売り場でバイトをしていた時、そこの職場で会った友達から教えてもらったのが最初。聞いているうちにだんだんとバイトの稼ぎの大半はジャズのレコード代となっていきました。この曲のタイトルは、さわやかにとなっていますが、ロリンズの演奏は結構ねちっこいかも。
これは名曲中の名曲だと思います。マイルスのミュートの効いた音色とキャノンボールの豪快サックスを楽しんでください。
ボサノバの代表曲。スタンゲッツのテナーがやさしい。ジョアンとアストラッドの歌も素朴でいいですね。
私の独断と偏見で選んでいる「ジャズこの一曲」第二弾ピアノ編です。さて、あなたの胸がキュンとする曲が入っているでしょうか。
ジャッキー・マクリーンの情感あふれるサックスとマル・ウオルドンの押さえながらのエモーションが感じられる曲。
クールな雰囲気の中、どんどんスイングしていくケリーのピアノソロがGood.
何というピアノさばき、指さばき、聞いていると自然に体が動いてきます。ジャズって良いなと思います。
ブルースフィーリングあふれる「ガーランド節」。ジャズの聞き始めに買った名盤。今聞いてもやっぱりいいわ。
聞いていて文句なく楽しい。スイング感いっぱいで、演奏に癖がない。
新コロナの勢いが落ちない。政府も地方自治体もいろいろ対策しているが、まずは自分がかからないようにしたい。皆さんもすでに対策・実践していることが多いと思いますが、対策方法をまとめてみましたのでお役にたてば幸せです。
日本歯科医学連合では、口の中を衛生的に保つ事によってウイルス感染のリスクを少なくすることが出来るとして情報発信されています。以下要約します。
歯周病菌が出すタンパク分解酵素は、ウイルスが粘膜細胞の中に感染することを促進するそうです。歯周病のある方は治療と口腔清掃が重要です。
腸内細菌のバランスは全身の免疫に密接に関わっていることが知られています。口の細菌が腸にたどり着き腸内細菌のバランスを乱し、結果ウイルスにかかりやすくなります。
中高年になると誤嚥性肺炎を起こしやすくなりますが、誤嚥のリスクの高い方は、ウイルス性肺炎のリスクも高まります。また歯周病菌は、血流に乗って全身を巡りますので体のあちこちに炎症を起こします。その結果体全体の免疫が乱されウイルス感染にかかりやすくなります。
<日本歯科医学連合からの情報発信>
http://www.nsigr.or.jp/coronavirus.html
この件については、あまり報道にも出ていませんが、栄養学の立場から、女子栄養大学栄養科学研究所長の香川先生から重要な提案が出されています。それによると
・肥満の人の方が痩せた人より死亡率が低い
・低血糖の場合は死亡率が高くなる
とのことです。最近はダイエットすることが美徳のように言いはやされていますが、この時期はポッチャリ型の方がリスクは低いようです。
<女子栄養大学香川先生の論文>
https://www.eiyo.ac.jp/ions/?p=3674
外出から自宅に帰って来たときは、必ず石けんで手洗いをしましよう。また食事前にも必ず石けんで手洗いしましよう。
<手洗いの仕方> 厚生労働省
手洗い新コロナは、飛沫感染と接触感染により感染します。閉鎖した空間・近距離での多人数の会話は避けよう。居酒屋・カラオケなどは、今は我慢しよう。
規則正しい生活と適度な運動は、体の免疫力を高めます。これはコロナに限らず普段から言われていることですが、再度認識し実行しよう。
マスクの効果は少ないとの指摘もありますが、ウイルスの付いた手で直接自分の顔を触らないという点で意味があります。マスクは逼迫していますが、手作りマスクの作り方もたくさんネットで出ていますので作って見てはいかがでしょうか。
<手づくりマスクの作り方(一つの例)>
https://www.youtube.com/watch?v=TAzbdux4Fzc&list=RDCMUChMYn1TS4_wuQNVgqB2re2w&start_radio=1&t=27
①ストレス発散のために、人の少ない公園等に行って体を動かそう。公園に行けない場合は、人の少ない通りをウオーキングしよう。
②家に居るときは、自分の趣味等でストレス発散しよう。
③子供と一緒に居るときは、子供と一緒に遊ぼう。(普段遊んでやれない分をカバーするつもりで)
④情報を収集し、デマに負けないようにしよう。
以上調べたことを纏めてみました。実行していないことがあれば、やってみて新コロナに感染しないようにしましょう。